お墓は必要なのか? もとより宗教は必要なのか?その5~シリーズ最終稿~
アルゼンチンw杯優勝おめでとうございます。壮絶な試合と結末で、試合終了の瞬間、なぜか涙が出てきました。感動と選手たちへの感謝の極みにあったのだと思います。
その一方で宗教にかかわるおぞましいニュースも聞こえてきています。イランではスカーフを正しく付けていないことから拘束された女性が死亡したことから、デモ運動が拡大し参加者二人が死刑になり、運動に賛同した女優が逮捕・拘留される事態になっています。アフガニスタンではタリバン政権が女性の大学教育を当面停止し、小学校教育しか受けられない事態になりました。コーランには女性を大切にすべきこととは書いてありますが、それが女性を家庭内で保護することとはタリバンの甚だしい飛躍曲解なわけです。
信仰・教えにかたくなになればなるほど、考え方は極端に振れ、現代社会との乖離が甚だしく広がっていく典型と思われるわけです。前回、言及した映画「沈黙」でも、主役のジョゼッペキアラが長崎奉行と議論する段で、キリスト教の教えは世界・人類に普遍的な真理と主張する場面があります。その真理とは何をさすのでしょうか。解釈の違いはあっても開祖の考え方を著す「コーラン」や「聖書」の記述に依拠するものと言えるでしょう。
その記述の一字一句の解釈に依拠し続ける限り、残念ながら不幸な出来事や対立、果ては尊い犠牲は避けられないことと思うのです。日本で言えば、江戸時代、地域によっては不正・苛烈な藩政治で塗炭の苦しみに陥れられた庶民がおびただしかった時代、救いを求め一心にすがることでパライソ(天国)での救いを求める以外に道はなかった方たちがいたことでしょう。鎌倉時代以降の南無阿弥陀仏にすがる極楽浄土信仰も同じ道だったことでしょう。(死に際に阿弥陀如来が迎えに来てくれて、西方極楽浄土に導いてくれる)
今でも、その道を示すことが宗教の在り方としている教団もたくさんあるでしょう。その一つが旧統一教会であるといえるでしょう。
もちろん、純粋に掬い取ろうとしている教団もたくさんあるでしょうし、救われた信者の方々もたくさんおられると思います。しかし、この道での信仰はあまりにも弊害が大きすぎると思えてなりません。そのことが元でおびただしい人の命が失われ、また人命が人権が軽視され続けてきました。
私としての結論を申し上げます。宗教は必要と思います。思いますが、すがる、崇拝する宗教には必要性はごくごく本来的には必要性は感じられないと言わざるを得ません。そこには場合により危険が潜んでいるかもしれません。知らず知らず、自らの思い込みにひたすらはまっていき真実の目がくらみかねないことと、信じさせようとしている側の隠れた真意を見極めることなど、到底できないことと思うからです。
すがるほかに道はなかった時代と違い、現代は完全ではないにしろ、真実に近づく道は限りなく広くなりました。科学的成果は日夜発展をとげ、その成果を自らの知識にするべく情報社会の海にコンタクトすることはより容易になってきているのです。最終的に依拠できることは自分自身で体験しえたことと、数々の情報を取捨選択し限りなく真実に近い事柄を徹底して選別することとなるでしょう。どこかに書いてあること、誰かが言っていたこと、昔から言われ続けてきたことに依拠することから離れることになるでしょう。それは、面倒なこと手間がかかることになるかもしれませんが最も効果が期待できるに違いないと思うのです。
お釈迦様は、真理に近づく道を問われ「信仰を捨てなさい」と説きました。そこにこだわる限り、永遠に真理を見出すことなどできないと諭したのです。それが、「自灯明、法灯明」でたよりにすべきは自分で体験的に見出した法則(真理)のみであるということなのです。
禅宗では日本曹洞宗の開祖、道元は「不立文字」、教義などの書いてある言葉に頼らず、ひたすらしずかな心で過去でも未来でもどこかでもなく「今、ここ」に焦点を当てて座禅により真理を見出すことを徹底して行った方でした。
私の宗教観の根本はこの立場にあり、今ここで生きておられる人々の思いに寄り添うことが宗教の存在意義と思っています。生きている今の救い(おこがましいですが‥)に少しでもお役に立つことがその存在意義と思うのです。そのための私のカウンセリングであり、根拠ある科学的知見や手法を磨き提供することは私の責務であり、使命とも思うところなのです。
ですから、正直お墓には興味はありません。亡き肉親やご先祖様を忘れることなく感謝や敬意を伝えることは、もちろん大切ですが、それはお墓がなくとも様々な方法で可能と思いますし、亡き方の生前の形見や一片のお骨を保存して、時に思い出すことでも十分なことと思うのです。もちろん、墓石があって、時に墓参することが感謝や敬意を示す最適法ならばそれはそれで結構なことではないでしょうか。
