自灯明と法灯明~本来の仏教は科学であるとなぜ言えるのか~
旧統一教会に対する諸裁判の原因となったトラブル、政治家とのつながり等が明らかになるにつけ、宗教の怖さやうさん臭さが、宗教一般に対する認識へ広がっていくのを危惧します。
宗教は救いを求める人たちがすがる対象を用意します。それが教祖様であったり、偶像であったり、果ては印鑑であったり教典だったり、壺であったりもします。それによって救われると思える方がいらっしゃればそれもまた、意味があるのかもしれません。しかし、そこから被害感情を持つ関係の方たちが現れているのも現実です。
自分も含め人はまったく弱い生き物です。一匹狼や雄ライオンのようにはひとりでは決して生きていくことはできない生き物です。なので、支えあいながら協力し合いながら生き残る道を探ります。すると、孤独はとても恐ろしい状況です。自分の身は自分しか守れなくなるからです。それで、身を寄せる木が、できれば大木が欲しくなります。孤独にさいなまれる時、人は容易に宗教にコントロールされやすくなってしまうでしょう。
お釈迦様は神の存在を明確に否定しました。ましてや、自分の似姿を形にして祈ることなど厳禁にしていました。人間的な何か形あるものにすがることの非科学性や危険性をよくよく認識されていたからです。それは、安易に楽を得る道、場合によりだまされる危険な道と認識されていたのだと思います。お釈迦様の死後、アレクサンダー大王東征により、北インドにギリシャ神像がもたらされます。弟子や信者たちはその魅惑と仏教信者拡大の誘惑とでついに仏像を作り始めます。今のアフガニスタンのガンダーラ地方においてです。仏教文化の発展・伝播については多大な意味と貢献があることは申すまでもありません。しかし、これはお釈迦様の教えとは相容れないことと言えるでしょう。
お釈迦様はすがるというより、よすがにする対象を自灯明と法灯明と説いています。「自灯明」とは、「自分自身を頼り(拠り所)として生きて行きなさい」という意味です。「法灯明」とは、「真理、つまり本当に正しいことを頼りにして生きて行きなさい」という意味です。法とは真理のこと、この人間界はもちろん宇宙をあまねく貫く普遍の真実・原理(これは物理学を含む現代科学そのものです)に心静かに目と心と耳を偏りなく傾け、学び、真に正しく理解したことをもとに自分の頭で深く考え、判断して生きること(これは科学的な生き方と言っていいことでしょう)の大切さを説いたのです。すがった先で、その宗教の教義を受け入れて救われていこうとする道とは根本的に道が異なっていると言えると思います。
お釈迦様は、当時も今のインドでも常識とされた前世、来世、生まれかわり、そして輪廻転生については一切、弟子たちに説きませんでした。いくら調べても、自己観察の徹底を尽くしても明らかにできないことは言及しなかったのです。あるともないとも言えないことは語るに及ばない態度を取ったのです。まさに科学者の態度そのものです。わたくしのカウンセリングにおいてももちろん科学的な姿勢を第一に進めてまいります。
