無の境地とは~過ぎたる反応を回避する~

人間が快不快・好悪の反応を始めるときは、当たり前ですが自己が前に出始めるときです。それが私というキャラクターを作っているからです。それが程よいあたりで収まれば問題はないのですが、自己が前のめりに出すぎる時、思うに任せない時に「苦」が生じてくることになります。古今東西の碩学・求道者はそのことに気づき思うに任せない自己制御の方法を哲学や修行、遁世によって図ろうとしました。ある方は、何年も洞窟にこもり瞑想を続け、ある方は何十年も図書館に通い詰め文献を読みまくり答えを見出そうと努めました。

諸科学と高度情報検索が発達した現代では、我々はそんな大それた苦労をせずともいくつもの有用な知見を発見することができます。

カリフォルニア大学サリベット教授は、被験者の脳に電極を指して、「指を曲げよう」と意識した前頭前野(自己を認識する心の部位)と、「指よ曲がれ」という筋肉への指令が脳の運動野で出た瞬間を計測しました。結果は興味深いものでした。自分が「指を曲げよう」と意識するよりも、平均で0.35秒前に、筋肉への指令、つまり無意識脳の活動が始まっていたというのです。私たちは私たちの心で判断・思考して行動していると思っていますが、心が私自身を掌握・コントロールしているのではなく、心も私自身を生存させていく働きの一部分であることが示されているということです。

また、脳内には10の神経ネットワークが確認されているのですが、その一つにデフォルトモードネットワーク(DMN)があります。これは、①自分の頭の働きと行動を自分で知って調整する。②内省する。③空想する。③過去の記憶、未来の創造から自己の一体性を図る。④社会を認知する。いわゆる、自己を認識し生存を維持するための部位のネットワークであることがわかってきて、これが私たちが長年求めてきた「自己」の核心と考えられてきています。その結果、自己とは体のその他の機能と同レベルの生命維持機能の一つと考えられるようになってきました。そのエビデンスとなるブリューワーの研究を紹介します。DMNが働きすぎると(生存危機認識が強すぎると)くよくよしたり、心配しすぎたりと苦の悪循環が深まるが、マインドフルネス瞑想を行うとDMN構成部位の内側前頭前野と後帯状皮質の活動が低下することが報告されています。

 いずれの研究も自己(あるいは自我)が私と同じ存在であるということが錯覚であることを示しています。錯覚の自己にこだわり、自己の快不快・好悪に囚われ振り回されて苦しみをこじらせることがいかに無駄なことかを教えてくれているようです。

 私が科学としてとらえているお釈迦様の説かれた原始仏教では五蘊無我という根本的な真理があります。五蘊とは心の四つの働きと体のことであり、心は人を形成し生存維持するための一作用に過ぎず、強固で不変の自我は存在しないことを心と体の徹底観察から見出したことを表します。現代最先端科学との一致に驚くばかりです。

 科学と原始仏教の智慧を知ることは有益で苦を超えていく勇気を与えてくれます。そうはいっても無の境地にたどり着くには容易なことではありません。私とともにカウンセリングをもとに歩んでいきましょう。

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Posted by ジェイ・慈英